コロナ禍になっても、いつも父の仏壇用の花と母へのおやつを届けました。
けれど、母は仏壇の花を替えることさえ、もう難しくなっていて・・・。
「マスク」と「花」は、あの頃の私たちの象徴です。
面会10分、玄関先だけの再会
2020年の3月の終わり頃だったと思います。
母の居住先であるサービス付き高齢者向け住宅から、面会制限の連絡がありました。
「面会は1日10分、玄関先のみで居室には入れません」「外出は不可」とのことでした。
それまでは毎週末、母をカラオケBARに預けている間に部屋の掃除をするのが、私の週末の習慣になっていました。
急な制限で外出もできなくなり、コロナ前に母と出かけたのは2月の終わりに行ったパスタ専門店での外食が最後。
それが結果的に、母の生涯で最後の外食になってしまいました。
まさかそんな日が来るなんて、誰もが想像していなかったことです。
私はただただ、戸惑いと不安でいっぱいでした。
奪われた日常、増す不安
面会制限に加え、会社でも出社制限が始まり、仕事もしにくい日々。
あの時の緊張感や閉塞感は、今では少しずつ遠い記憶になりつつありますが、確かにそこにあった現実でした。
日曜日の夜は、テレビにも関心が薄れてきた母でしたが「イッテQ」をつけると笑い、その姿を見て私は安心する。
そんなささやかな日常さえ、コロナ禍によって奪われてしまいました。
部屋に入れなくなり、母の部屋の状態も気になって仕方ありませんでした。
母は掃除をできる状態ではなく、施設の清掃サービスも週数回とはいえ限界がありました。
部屋がどうなっているのか想像するたび、胸が痛みました。
不機嫌な母、無力な私
母も当然戸惑い、「なんで入らないの?もう帰るの?カラオケ行けないの?」「私も帰らなくちゃ、お父さんがごはん待ってる」などと言い不機嫌になることもしばしば。
時にはお出かけの服を着てバッグを持ち、強引に外に出ようとしたこともありました。
平日のグループ内のデイサービスには通うことができていたのが救いでしたが、そこでも歌うことが禁止に。
カラオケBARにも行けず、次第に母の表情は曇っていきました。
私自身も、どうすることもできない無力感に押しつぶされそうな毎日でした。
感染も怖かったですが、それ以上に「このままだと認知症が早く進む」という恐れと焦りがありました。
カラオケが母の生きがいだっただけに、その楽しみを奪われたことが本当に辛かったのです。
毎日、「早く収束してほしい」と祈るしかありませんでした。
入居当初はお掃除などスタッフさんのちょっとしたお手伝いも喜んでしていたようですが、コロナ禍ではそれさえできず、不機嫌になり悪循環。スタッフさんとも距離ができました。スタッフさんとのちょっとした会話もしにくくなり、母も非常に寂しそうにしており、私が同居できれば…と真剣に考えたこともありましたが、それこそ一時は暗中模索でした。
そして、転機
コロナ前から、施設のケアマネジャーさんから「認知症専門のグループホームへの転居」を勧められていました。
この住宅には専門スタッフがいないため、サポートに限界があるとのこと。
母のためにも、より適した環境を検討すべき時期に来ていたのです。
実際、母は不穏な日が増えており、スタッフさんへの暴力や脱走もありました。
男性スタッフを押しのけて窓から出ようとしたことも。
体も動くし力も強い母は、当時かなりの“問題児”だったと思います💦
ケアマネジャーさんが複数の施設資料を用意してくださり、弟とグループホームを見学しましたが、当時は空きがなく連絡待ちの状態でした。
そしてコロナ禍真っ只中の2020年7月、「空きが出ました」との連絡が。
本当にありがたく、奇跡のようなタイミングでした。
環境の変化は認知症を進行させるリスクもあります。
それでも「ここにはもう居られない」と、背に腹は代えられず。
私たちは、認知症の専門的な介護を受けられるグループホームへの転居を決断しました。
次回は…
引越し当日に見た母の部屋、5ヶ月ぶりの衝撃から書き始めたいと思います。
つづく…
  
  
  
  

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